「七里の渡し」へ行ってきた
愛知県名古屋市へ行った時に、東海道を少し歩きました。江戸時代の江戸・日本橋から京都・三条大橋に伸びる道で、浮世絵の歌川広重作「東海道五十三次」などで有名です。十返舎一九の「東海道中膝栗毛」に出てくる弥次さん、喜多さんのコンビをご存知の方も多いと思います。
七里の渡し(しちりのわたし)は東海道五十三次で知られる宮宿(愛知県名古屋市熱田区)から桑名宿(三重県桑名市)までの海路で、私が行ったのは宮宿側です。
熱田神宮からも徒歩圏ですので、興味がある方は覗いて見るのも良いかもしれません。
七里の渡しは1616年から始まり、名前の由来は移動距離が七里(約27キロ)だったからだそうです。現在は時々船でこの海路を渡るツアーやイベントがあるようですが、訪れた時にはそんな感じでは無く、公園として整備されているような雰囲気です。
七里の渡しの説明や、江戸時代の絵がありました。歌川広重では無いようです。
常夜灯
なんと芭蕉先輩と七里の渡しが関係があるなんて知りませんでした。名古屋鳴海の門人達との交流で歌を詠み、蕉風発祥の地と言われるきっかけを作った場所らしいです。
ドイツ人医師シーボルトもここに来事があるそうです。
向こうが桑名まで続いているのでしょうか。
時間とお金ができたら東海道を徒歩で旅してみたいと妄想しています。いつかここから桑名まで行ってみたいと思います。
「大縣神社」へ行ってきた
これは「田縣神社」へ行ってきたの続きです。
田縣神社をお参りした後、そのまま「大縣神社」へ向かいました。
大縣神社は田縣(たがた)神社の豊年祭と対になるような形で毎年3月15日直前の日曜日、女陰をかたどった山車などが練り歩く豊年祭が行われます。尾張に春を呼ぶ催事と言われており、やはり生命と関係したお祭りと思われます。
名鉄小牧線で「田縣神社前」から「楽田」まで移動します。2~3分の距離ですが、本数の少なさに注意だと思います。楽田駅から下りるて東に真っ直ぐ進むと神社です。
途中に碑がありますので、迷うことも無いです。
真っ直ぐ登り坂を歩いていった先に神社がありました。徒歩で20分くらいです。
大縣神社鳥居
祭神は、「大縣大神(おおあがたのおおかみ)」。大縣大神は、国狭槌尊とする説、天津彦根命(大縣主の祖神)とする説、少彦名命とする説、大荒田命(日本武尊の三世孫で迩波縣君の祖)とする説、武恵賀前命(神八井耳命の孫)とする説などがあるそうですが、実ははっきりしていないそうです。ただ、「大縣大神は、尾張国開拓の祖神である」とされており、周囲に大きな古墳群がある事から、尾張氏と関係があるのではと個人的に思います。 境内には、いくつかの境内社があり、昔は別宮二社、末社52社があったとされています。ここは古来より安産・子授など女性の守護神として崇敬されており、女陰をかたどった石などが奉納されています。田縣神社の男根に対応するものではないかと言われています。
社伝によれば「垂仁天皇27年(紀元前3年)に、本宮山の山頂から現在地に移転した」とあるそうですが、現在「本宮山」(「尾張大富士」と呼ばれ、尾張三山の一つに数えられる。)の山頂には、大縣大神の荒魂を祀る本宮社があるそうです。
入り口にはこの神社の説明がありました。
大縣神社拝殿
山の冷気が感じられてひやっとしました。 尾張国二の宮として、皆に親しまれているそうです。御社殿は、尾張藩主2代目徳川光友公が寛文元年(1661年)に再興された建物で、尾張造の構造様式を正確に伝へ、「三棟造」・「大縣造」と称され他に類をみない特殊な様式を構え、昭和56年6月5日国の重要文化財の指定を受けているそうです。
姫之宮
御祭神の神裔 玉比売命(たまひめのみこと)を祀り、古来より女性の守護神として称えられ、安産・子授け・婦人病 特に縁結びの神様として篤い信仰があるそうです。
裏手には、良縁成就の「むすひ池」がありました。
大国恵比須神社
大縣神社梅園
お邪魔した日は、「梅祭り」が開催されていました。全国の著名な梅園・神社よりご奉納戴いた梅をはじめ紅白300本のしだれ梅があるそうです。
色とりどりの梅が咲いていました。
神社は山頂からここまで移転されたそうですが、それでも高い所にあり、周囲が見渡せます。
大縣神社から、本宮山の山頂まで歩いていけるコースがあるそうですが、時間も装備も無いため今回は諦めました。次来る時は挑戦したいと思います。
また、周囲に見学できる古墳もあるそうなので、次はそちらも見学したいと思います。
全く時間はいくらあっても足りないものです。皆さんもお時間がある時に挑戦してみてはいかがでしょうか。
送料無料/古代の謎・抹殺された史実 物部・葛城・尾張氏と東海のかかわり/衣川真澄
「田縣神社」へ行ってきた
愛知県に行った際に、「田縣神社」へ行ってきました。ここは、毎年3月15日に男性が「大男茎形(おおおわせがた)」と呼ばれる男根をかたどった神輿(直径六〇センチ、長さ二メートル余)を担いで町を練り歩き、小ぶりな男根をかたどったものを巫女たちが抱えて一緒に練り歩く「豊年祭」で有名な神社さんです。「天からの恵みにより、大地が潤い、五穀豊穣となる事と子宝に恵まれる」事を祈願する祭事で、至極まじめな祭りですが、奇祭として知られています。
神社の創建の年代は不詳ですが、醍醐天皇の延長五年(927)に編纂された「延喜式」には「尾張国 丹羽郡 田縣神社」とあり、貞治三年(1364)の「尾張国内神名牒」には、「従三位上 田方天神」とあるそうで、古くから格式の高い神社さんだったようです。
当日は、名古屋市でJRから名鉄犬山線に乗り換え、名鉄犬山線「犬山駅」でさらに名鉄小牧線に乗り換え。「田県神社前駅」で下車後徒歩5分。まあ、名古屋から1時間は見ておいた方が良いと思います。また、「田県神社前駅」周辺には、少ないですが喫茶店や飲食店がありますので、食事も何もできずに困るといった事は無いと思います。私は神社の帰りに食堂で味噌田楽の定食をいただきました。
駅から大通り沿いを5分ほど歩くと、神社の鳥居が見えます。
土日祝日だからなのか人が多いです。
境内にはご家族が多く、子供がけっこういました。地元では子宝で有名らしく、若いカップルも見かけます。
本殿
本殿では、ちょうどご祈祷中でした。静かにお参りさせていただきましたが、奥にはあの神輿なのでしょうか、巨大なシンボルがデーンと鎮座していました。
御祭神は、「御歳神(ミトシノカミ)」と「玉姫命(タマヒメノミコト)」。
御歳神は素戔嗚尊(スサノオノミコオ)の孫で、大歳神(オオトシノカミ)の子。農業をつかさどる神様で五穀豊穣の守護神だそうです。
玉姫命は尾張地方開拓の祖神である大荒田命(オオアラタノミコト)の王女。尾張氏の健稲種命(タケイナダネノミコト)の妃。二男四女の子宝に恵まれましたが、夫亡き後は故郷荒田の里(現鎮座地)に帰り、父を助け開拓に励み、子女教育に勉められ、その功績を称え、後に合祀されたそうです。
やはり巨大なシンボルに相応しく、「恋愛、子宝、安産、縁結び、夫婦円満、商売繁昌、厄除開運、諸病の平癒」など生命力に関連した事で皆さんお参りにくるようですね。
境内にはさらに奥があります。
奥宮
境内には所々、シンボルを象った石などが有りますが、堂々すぎてエロさなどは全くありません。
奥宮には、大小様々なシンボルが沢山祭られていました。なるほど、これは御利益がありそうです。
子宝の御利益のせいか、狛犬さんも子供を連れていました。
お参りさせていただきましたが、お参りする方も多く、なるほど御利益がありそうな神社さんでした。こちらのお土産がほしい方は社務所を探してみると良いかもです。
私はここから、さらに「大縣神社(おおあがたじんじゃ)」さんへ向かいました。
続く
「熱田神宮」に行ってきた
お天気の良い日に「名古屋」へ行ってきました。目的地は「三種の神器」の一つ、「天叢雲剣」が祭られている「熱田神宮」です。ちなみに「三種の神器」とは皇位の象徴とされる八咫鏡(やたのかがみ),天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ),八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)の総称です。天叢雲剣は草薙剣(くさなぎのつるぎ)とも呼ばれていますのでそちらの方が有名かもしれません。NHKドラマ「平清盛」で源 義朝(みなもと の よしとも)さんが由良御前と初めてお会いする所でご存知の方もいらっしゃる事でしょう。
日本の古代の王権を象徴するレガリアが未だに存在して祭られているなんてドキドキしますよね。八咫鏡は「伊勢神宮」へ、八尺瓊勾玉は皇居へあると言われています。残念ながら一般の人間は確認できないため、真偽の程は判りません。おいおい、NHKドラマ「平清盛」で見たけど、壇ノ浦に沈んだんじゃ無いのかいと疑問の貴方、天皇が側に置いている天叢雲剣は「形代」、つまりレプリカですから!!、ご安心ください。なぜだか天皇家は天叢雲剣を側には置かないのです。そこは考古学なのか、人類文化学なのかは判りませんが、自分的にはとっては興味深い疑問の一つです。
「JR名古屋駅」から「名鉄名古屋駅」に乗り換え、「神宮前」駅へ向かいます。この名鉄名古屋駅は、同じホームから色々な方面の電車が出ますので非常に判りづらいのでご注意ください。どうも名鉄名古屋駅から南に行く電車は大抵神宮前に停まるらしいのですが、自信がありません。新幹線で名古屋に来た方は、そのままJR熱田駅まで乗り換えて行ったほうが判りやすいかもしれません。
10分ほどで神宮前駅に着きますと、駅前に大きい森が見えますので熱田神宮だとすぐ判ります。「熱田の杜」と呼ばれているそうです。
熱田神宮の創祀は、三種の神器の一つ天叢雲剣(草薙神剣)の御鎮座に始まるそうです。第12代景行天皇の時代(113年)、日本武尊(やまとたけるのみこと)は神剣を今の名古屋市緑区大高町火上山(氷上姉子神社がある場所 )に置いたまま三重県亀山市能褒野(のぼの)で亡くなったと言われています。その後、日本武尊のお妃である宮簀媛命(みやすひめのみこと)は、神剣を熱田の地にお祀りになりられたのだそうです。確かに熱田神宮の周辺には、「白鳥古墳」や「断夫山古墳 」など、日本武尊に関係する古墳が存在します(諸説有り)。
大きい鳥居をくぐりますと、杜の中の参道が続きます。本殿に着く前に大きな「楠」が見えますが、何とあの「弘法大師」のお手植えだそうです。
樹齢は千年だそうで、皆さんご神木としてお参りしています。ここに蛇が住んでいるそうなので、見えたらラッキーとのことでした。
さらに奥へ進むと、あの織田信長が奉納した「信長塀(のぶながべい)」があります。
NHKドラマの「おんな城主 直虎」でついに桶狭間の戦いが放送されたそうですが、永禄3年(1560)織田信長が桶狭間出陣の時、熱田神宮に必勝祈願をしてみごと大勝したので、そのお礼として奉納した築地塀(ついじべい)だそうです。
土と石灰を油で練り固め瓦を厚く積み重ねたもので、兵庫西宮(にしのみや)神社の大練塀、京都三十三間堂の太閤塀とともに日本三大土塀の一つとして有名との事です。
本宮(ほんぐう)
熱田の杜の奥にあるのが本殿です。見ていただいた通り、すごい人です。
主祭神は「熱田大神(あつたのおおかみ)」 、天叢雲剣をご神体とする天照大神を指すと言われているそうです。
しかし、創建の経緯などから熱田大神は日本武尊のことであるとする説も根強いと言うう事もブログには書いておきます。
大宮司職は代々尾張国造の子孫である尾張氏が務めていましたが、平安時代後期に尾張員職の外孫で藤原南家の藤原季範にその職が譲られた事になっています。以降は子孫の藤原氏・千秋氏が大宮司、尾張氏は権宮司を務める事になっているそうです。この季範の娘が源頼朝の母(由良御前)で、平清盛に出た方ですね。熱田神宮のすぐ近くには源頼朝出生跡地にある誓願寺と誕生旧地碑があります。
藤原氏の神職への影響力は凄まじく、興味がある方は調べてみると面白いと思います。ビックリしますよ。
授与所(じゅよしょ)
お守りやお札を授与する所ですが立派ですね。御朱印もこちらでいただけます。
文化殿・宝物館(ぶんかでん・ほうもつかん)の入り口には「太郎太刀」が展示してあります。
国宝・重要文化財・愛知県文化財がたくさん展示されています。刀剣に興味があるなら一度見てみても損は無いと思いますよ。
あっさりしたおつゆですが、美味しかったです。
熱田神宮境内はとても広く、別宮、摂社、末社が無数にあります。また、「楊貴妃の墓」や西行法師が腰をかけて休んだという伝承がある「二十五丁橋」など、歴史的な見所もたくさんあるため、一日では全て回りきれませんでした。私はまた来ようと思います。そうして次来るときには「ひつまぶし」を食べようと思います。
「銀閣寺」へ行ってきた
熊野若王子神社をお参りした後、「哲学の道」にある「叶匠寿庵京都茶室棟」で休憩しました。ちなみに風情のある門をくぐって入るため、滅茶苦茶値段が高いんじゃないかと最初びびりましたが、そんな事も無かったです。奥が茶房になっており、とても落ち着いた感じでした。
「ぜんざい」をいただきました
大納言小豆を土鍋で炊き上げ、小豆の風味を生かした上品なお味でした。
その後、「哲学の道」を進み、お寺や神社を横目に「銀閣寺」まで行きました。昔一度来た事があったのですが、何だか参道にオシャレなお店が増えた気がします。
ちなみにご存知の方も多いと思いますが、「銀閣寺」は「金閣寺」と違い、銀ではできておりません。正式名称を「東山慈照寺」といい、「相国寺」の塔頭寺院の一つです。銀閣寺を創建したのは室町幕府8代将軍の足利義政で祖父である足利義満が建てた北山山荘(金閣寺)を参考に、東山文化の代表東山山荘を造営したそうです。
東山山荘の楼閣建物を「銀閣」と呼ぶことから、寺院全体が銀閣寺と称されているそうです。つまり通称ですね。 金閣、「飛雲閣(西本願寺境内)」とあわせて京の三閣と京都では言われているとの事。
銀閣(観音殿)
銀閣寺を代表する建物が銀閣(観音殿)です。皆さんも銀閣寺と言えばこの建物を思い浮かべてると思います。銀閣は2層構造で初層は「心空殿」といわれる住宅風様式を取っており、上層は「潮音閣」といわれる禅宗様(唐様)の仏堂になっています。現存する唯一の室町期・東山文化を代表する楼閣庭園建築だそうです。
庭園
銀閣寺の庭園は銀閣(観音殿)前に広がる錦鏡池(きんきょうち)を中心に池泉回遊式庭園を形作っています。この庭園は「西芳寺(通称:苔寺)」の庭園を模して造ったと言われているそうです。残念ながら現在の庭園は江戸時代に改修されたもので、創建当時とは異なっているそうです。
写真の手前は、砂を波形に盛り上げた「銀沙灘(ぎんしゃだん)」、奥の山は円錐型の「向月台(こうげつだい)」と言われています。この形になったのは江戸時代後期との事ですが、昔はどんな形だったのでしょうか。
本堂(方丈)
正面にかかる額には「東山水上行」と書かれています。
本尊として「釈迦牟尼仏」が安置され、江戸期の南宋画家の巨匠、「与謝蕪村(ヨサブソン)」、「池大雅(イケノタイガ)」の襖絵が所蔵されてます。
さらに奥には阿弥陀如来を祀る阿弥陀堂である「東求堂」(国宝)があります。
その奥には庭園と山道があり、山腹にはきれいな湧水があります。「お茶の井」と呼ばれ、今でもお茶会の水として利用されているそうです。足利義政が茶湯として利用したそうなので、まさしく室町の頃から利用されている歴史のある場所ですね。
時間と体力があれば、ぜひ庭園を見てまわっていただきたいと思います。
室町時代の面影を感じられる場所だと思いますよ。
「吉水神社」へ行ってきた
これは「金峯山寺」へ行ってきたの続きです。
吉野山へ行った際に、歌舞伎の演目である「義経千本桜」のように、実際に「源義経」公がこの地を訪れていた事を知りました。
「静御前」と「源義経」公の別れの場所があるとの事ですので、行ってみる事にしました。その場所が「吉水神社」と言う場所です。
吉水神社
御祭神は後醍醐天皇を主祭神とし、併せて南朝方の忠臣であった楠木正成、吉水院宗信法印を配祀されています。
白鳳年間に役行者により建立されたと伝えられますが、金峯山寺の僧坊・吉水院(きっすいいん)だったそうです。明治維新の時に、悪名高い「神仏分離(廃仏毀釈)」により、天皇を仏式で祭られている事が問題視され神社になった経緯があるとの事。
後醍醐天皇が詠まれたとされる歌
南北朝時代、後醍醐天皇が吉野に潜幸したとき、宗信法印の援護を受けて吉水院に行宮を設け、一時居所としたそうです。南朝政権(吉野朝廷)を樹立した場所なんですね。
敷地内にユネスコに世界遺産として登録された「書院」があり、そこには「後醍醐天皇玉座」が保存、公開されています。また、後醍醐天皇に関係した品も展示されており、有料ですが、一見の価値ありだと思います。
境内入り口
写真左手奥が書院入り口、右手奥が神社になります。
1185年、源義経公(私のイメージは「平清盛」の神木君です。)は兄頼朝公の追手から逃れ、静御前や弁慶と共に、ここ吉水神社を訪れたそうです。
義経一行は、山伏姿に身をやつして大峰山を目指しさらにここから南へ下りましたが、大峰山が女人禁制だったため、静御前とはここで別れましたが、結果的にここが義経公と静御前の永久の別れの地となった訳です。捕らえられた静御前が頼朝公に鶴岡八幡宮社前で白拍子の舞を命じられた時に詠んだ歌にはこの事が歌われているのですね。
「吉野山 峰の白雪ふみわけて 入りにし人の跡ぞ恋しき」
書院には「色々威腹巻 」源義経公の鎧が展示してあります。歴史好きにはたまらない凄い場所です。
また、ここは豊臣秀吉が、徳川家康や前田利家や伊達正宗ら武将を引き連れて盛大な花見の宴を催した事で知られています。その御一行は5千名とも言われ、その時豊臣秀吉が詠んだと言われる歌も残っています。
「年月をこころにかけし吉野山花のさかりを今日見つるかな」
残念ながら、桜の時期では無かったため吉水神社からの景色はこんな感じです。
桜の季節はこんな感じになるそうです。
注、設置された看板です。
また、敷地内には書院以外にも庭園など見てまわれるところが沢山あります。
庭園
向こうに金峯山寺が見えます。
右側奥に見えるのは「北闕門」と呼ばれる門です。ここは元々、修験者が大峰山から無事に下山できるように祈るところでしたが、後醍醐天皇は、いつの日か北闕(京都)に凱旋できる時を念じて、この北闕門に立ち、京都の空を仰ぎながら「九字」を切られたられたそうです。「九字真法」による邪気払いの作法が看板に書いてありましたので、私もちょっとやってみました。効果の程は・・・判りません。
源義経公だけでは無く、色々な歴史に触れる事ができる場所でした。それは吉野の山全体にも言える事かもしれません。今度は桜の季節に訪れて、昔の人も見たであろう、素晴らしい景色を見てみたいと思います。
新版 李家幽竹 最強龍穴パワースポット 龍穴には強運のすべてがある!
- 作者: 李家幽竹
- 出版社/メーカー: 山と渓谷社
- 発売日: 2017/03/01
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
- この商品を含むブログを見る
「建勲神社」へ行ってきた
「建勲神社」に行くために、バスに乗って、京都「船岡山」まで行きました。あの「清少納言」も「枕草子」で「岡は船岡」と書いている有名な場所です。バス亭から5分程歩くと大きな鳥居が山の麓に見えてきます。そこからさらに5分ほど坂道を登っていくと「建勲神社」境内です。
「建勲神社」は御祭神が「織田信長」公、配祀が「織田信忠」卿です。
天正10年(1582)6月2日に、「本能寺の変」で「織田信長」公が討たれました。その後天下を治めた「豊臣秀吉」さんが、船岡山を織田信長公の廟所と定められたそうです。時代が過ぎ、明治2年、天下を統一した織田信長公の偉業を称え、明治天皇が創建。さらに明治43年に船岡山の山腹に在った社を現在の山頂へ移動されたそうです。
山頂
拝殿前の石段下に位置する狛犬は愛知県岡崎市の戸松甚五郎氏によるものだそうです。台座正面には織田木瓜紋が刻まれています。
拝殿 登録有形文化財
内側に織田信長公三十六功臣のうち十八功臣の額が飾ってあります。
奥が「神門(祝詞舎)」と「本殿」です。
お参りさせていただきましたが、若い女性がとにかく大勢いました。
これが「歴女」と呼ばれる人達かと関心していましたが、「社務所」で御朱印をいただく時に謎が解けました。「京都刀剣御朱印めぐり」といって、人気オンラインゲーム『刀剣乱舞』に出てくる刀とゆかりのある神社の御朱印を巡っていただくイベントをしているのです。建勲神社では「宗三左文字」、「薬研藤四郎」、「不動行光」と縁があるため、皆御朱印をいただきに来ているのです。テレビで見ましたが、「刀剣女子」って本当にいるんだと少し感動しました。私自身、古い剣術なんかもしているのですが、私の周りには刀剣刀剣言っている人は一人もいませんでしたから。私も技術的な所以外には興味がありません。ただ、安い「3尺3寸の居合刀」は探してます。
へ~、これが刀剣女子か~と関心しておりましが、その御朱印めぐりの中にある「骨喰藤四郎」は実物を見た事があります。京都国立博物館で公開していた時に見る事ができたからです。ただ、美術品としての美しさ以外にはピンとはきませんでしたが。
そんな若い女性も訪れる「建勲神社」さんに皆さんも訪れてはいかがでしょうか。船岡山にも登れてお得です。
ちなみに、山の奥に進むと船岡山の「岩倉」があります。
「五山送り火」の見晴らしもとても良いそうです。