「金峯山寺」へ行ってきた
これは「吉野山へ行ってきた(7)」の続きです。
「金峯山寺(きんぷせんじ)」は、吉野山にある金峰山修験本宗(修験道)の本山だそうです。
大和の国 、吉野山から大峯山山上ケ岳にかけての一帯は古くは金峯山(きんぷせん)と呼ばれ、古代より世に広く知られた聖域だったそうです。この金峯山に「役行者」が白鳳年間(7世紀後半)に修行に入り、修験道独特の本尊・「金剛蔵王大権現」を感得されたそうです。この姿を山桜に刻んで、山上ケ岳(現:大峯山寺本堂)と山麓の吉野山(現:金峯山寺蔵王堂)に祭祀されたとの事。これが金峯山寺の開創だと伝えられているそうです。
ただ、役行者が伝説の人物(続日本紀に記述があるので、実在の人物と考えられています。)すぎて金峯山寺開創の正確な事情、時期、創立当初どのような寺院であったかなどについては資料が不足しているとの事でした。
二王門(仁王門、国宝)
立派な山門です。室町時代の康正2年(1456年)の再興と言われています。左右にある阿吽の仁王像も5mもあり、重要文化財へ指定されているそうです。
本堂(蔵王堂、国宝 )
金峯山寺の本堂。秘仏本尊蔵王権現(約7m)三体が安置されていらっしゃいます。その他に多数の仏像もいらっしゃいます。
重層入母屋造り、桧皮葺き、高さ34メートル、四方36メートル、ととても大きいです。こんな山の中に本当に驚きます。
秘仏本尊蔵王権現三体は、本地仏の釈迦如来(過去世)、千手観音(現在世)、弥勒菩薩(未来世)を表されているそうです。普段は秘仏として拝観できませんが、特別ご開帳される事があり、私はお会いする事ができました。
暗い本堂の中、巨大な蔵王権現が浮かび上がる姿は本当に神秘的です。何も感じないタイプの私ですが、自然と頭が下がります。こんな場所にこんな巨大な物があるなんてと驚き、神秘的な空間に驚き、そんな自分にも驚きました。信仰には疎い私ですが、確かに古くからの信仰の場なんだろうなーと実感できると思います。皆さんも一度ご体験してみてはいかがでしょうか。
ちなみに、金峰山修験本宗(修験道)の本山だけあって「大峯修行体験」ができるみたいです。男性だけでは無く女性も参加できる修行もあるみたいですが、内容は中々ハードです。日程も決まっていますし、ハードルは高い気がします。私の信仰心の問題かもしれませんが。
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「諏訪大社・下社春宮へ行ってきた」
この記事は「諏訪大社・下社秋宮へ行ってきた」の続きです。
下社秋宮へ行った後、「下社春宮」へ向かいました。秋宮から西へ約1kmのくらいの位置です。
通りの途中に大きな鳥居があります。なんでも昔は社頭から真直ぐ800m程伸びる道路は春宮の専用道路だったとの事。
鳥居の向こうに見えるのは「下馬橋」です。参道途中にあり、身分にかかわらず馬から下りて渡らなければならないとされ物の名残です。室町時代造営で下社では最古の建造物と言われており、現在も遷座祭で神輿のみが渡るそうです。
神楽殿
秋宮と比べると、なんだか静かな感じでした。落ち着きます。
幣拝殿(重要文化財)
「下社春宮」は毎年2月ー7月に祭神が祀られていらっしゃるそうです。
江戸時代(1780年)落成。幣殿と拝殿が一体となった二重楼門造りで、左右に片拝殿(重要文化財)が並ぶ様式です。
非常に落ち着いた雰囲気でお参りする事ができました。
「下社春宮」に来た時には、すぐ近くには「万治の石仏」と言うインパクトのある仏様がいらっしゃるので、寄ってみたらいかがでしょうか。緑豊かな素敵な小道の向こうにありました。
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「神倉神社」へ行ってきた
今年も2月6日に、和歌山県「神倉神社」で「御燈祭」が開催されました。雨が降ろうが雪が舞おうが、毎年2月6日、白装束に身を固めた2000人とも言われる上り子が、午後8時、松明に火をつけ法螺貝を合図に538段の石段を一気に駆け下る勇壮な火の神事です。どのくらい凄いかと言うと、写真で見ると、あまりの規模から山火事にしか見えません(個人の意見です)。 NHK大河ドラマ「平清盛」で、 崇徳上皇 を演じられた「井浦 新」さんは、同じくNHK「日曜美術館」で、御燈祭に参加されてましたが、火の勢いが凄くて服が焦げてました。
平安の頃、白河上皇が頻繁に「熊野御幸」をされていたことを知り、「熊野古道」や「お伊勢さん」がブームだった頃だったため、私も「熊野詣で」に行って見る事にしました。その時「熊野三山」の一山である「熊野速玉大社」さんの摂社として「神倉神社」さんに寄らせていただいたのです。御燈祭については映像を見たことがあったため、どんな物だろうな~くらいのイメージでした。
行って見ると、神社の?神倉山の?入り口の石段下に石の手水鉢がありましたが、そこにはなぜか大きい蟹がいました。近くに川も何も無い気がしたのですが、あそこに住んでいるのでしょうか?。判らなかったので、ご存知の方、宜しければ教えてください。
そうして入り口の鳥居から、上を見上げた瞬間、これを駆け下りるのは絶対無理だろと正直思いました。
参道麓の鳥居
イメージはバ~ン!!て感じの階段です。あまりに急なため、別の女性が登るのを諦めていました。こんな角度の階段走り下りたら大けがするでしょ。
石段は538段在り、自然石(花崗岩)を組み合わせて築かれたもので、幅は平均約4メートル、高さと奥行きは一定では無く、おおよそ高さ25センチメートル、奥行きは30から40センチメートルだそうです。なんと建久4年(1193年)に源頼朝が寄進したと伝えらているそうです。
頑張って登ると、15分ほどで神社にたどり着ける事ができました。
そうして階段は無事だったのに、平らな石畳の参道に出たらばなぜかすっころびました。気を抜いた時が一番危ないという事を証明してしまいました。
神倉神社・ご神体「ゴトビキ岩」
祭神は「天照大神」と「高倉下命」を祀ってらっしゃいます。
山上にある大きな岩がゴトビキ岩(「琴引岩」?。ゴトビキとはヒキガエルをあらわす新宮の方言らしい)と呼ばれる巨岩がご神体として祀られています。熊野権現が諸国遍歴の末に、熊野で最初に降臨した場所であるとも言われているそうで、熊野速玉大社奥院と見なされる事があるそうです。
「古事記」、「日本書紀」によれば、神倉山は、神武天皇が東征の際に登った天磐盾(あめのいわたて)の山であるとの記述があるそうで、古代から何らかの信仰の対象であったのかもしれません。確かに山に登って山頂にこんな岩があったら、大自然の力を感じますね。
ちなみにあの、「平家物語」にも登場するらしいです。
お参りすると、今度は大きな蛇がいました。蟹と言い、蛇と言い、生命の力が強い空間である事は間違い無いと思います。
新宮市の街並みと太平洋
頂上から見た景色です。向こうに見えるのは熊野灘でしょうか。
帰りは当然あの階段を下りていったのですが、登るより怖かったです。滑りにくいスニーカーか登山靴で行くことをお勧めします。再度こんな所どうやって駆け下りるんだと本当に思いました。YouTubeなどで検索すると「御燈祭」の凄さが判ると思いますので、一度見て見てください。私が言っている事が判ると思います。
興味がある方は実際に登ってみるのが、一番間違い無いと思います。
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「諏訪大社・下社秋宮へ行ってきた」
NHK大河ドラマ「真田丸」、中々面白かったです。NHKの受信料を払っても良いなと思った久々のドラマでした。堺雅人さんと草刈正雄さんがかっこよかった。「平清盛」、「八重の桜」、以外はつまらなくて最近はあまり見ていませんでしたが、全編見てしまいました。京都や奈良、大阪などのドラマの舞台をまた訪れてみたいなーと今は考えております。ちなみに真田家の故郷である長野県には、以前「戸隠神社」さんや「善光寺」さんに行った事がありましたが、「諏訪大社」さんにも行った事があります。
「諏訪大社」さんは草刈正雄さん演じる真田 昌幸が仕えた武田信玄からの信仰が厚く、戦時には「南無諏訪南宮法性上下大明神」の旗印を先頭に諏訪法性兜をかぶって出陣したと伝えられています。真田丸でも二代目である武田勝頼の後ろに 『諏訪 上下大明神』の掛け軸が飾ってありました。
最近のパワースポットブームで書籍に載っていたりするので、ご存知の方もいらっしゃるかもしれません。私としては「御柱祭」であったり、最近の研究で「稲作」が最後までこの地にやってこなかった説の方がピンときます。中々の「まつわろぬ」度合いではありませんか。
「諏訪大社」さんは「諏訪大社」と名前がありますが、一つの神社さんを指すのでは無く、諏訪湖周辺4か所にある神社の総称です。本殿と呼ばれる建物が無く、代りに秋宮は一位の木を春宮は杉の木を御神木とし、上社は御山を御神体として信仰していらっしゃるそうです。創建の年代は不明だそうですが、「古事記」や「日本書紀」にも諏訪の地についての記載がある事から、日本最古の神社の1つと言われているそうです。
確かに、奈良の「大神神社」さんも祀ってらっしゃるのは「三輪山」でした。
古代の神社には社殿がなかったと言われているそうなので、歴史を感じますね。
下社は秋宮・春宮が在りますが、上社と異なり二宮の地位は同格だそうです。なんと、御霊代(依り代)が2月と8月に両社間を移動するそうです。時期によってお留守の時
があるのでご注意?なんでしょうか?。
まず私は、下社秋宮へお参りに行きました。こちらには毎年8月から翌1月に祭神が祀られているそうです。
早速みつかりました御柱
社殿の四隅に御柱(おんばしら)が立っています(御柱は一から四の順に短く細くなり、上空から見た場合に時計回りに配置される。)。なんと、由来は明らかでなく色々な説があるそうです。
神楽殿(重要文化財)江戸時代、天保6年(1835年)造営。
立派なしめ縄の神楽殿。狛犬さんも立派です。
幣拝殿(重要文化財)江戸時代、安永10年(1781年)落成。
御祭神は
建御名方神 (たけみなかたのかみ)-大国主命の次男。国譲りの際に反対し、武甕槌命に相撲を挑んだが負けてしまい、諏訪まで逃れたそうです。そして、以後は諏訪から他の土地へ出ないこと、天津神の命に従うことを誓ったと言われています。詳しくは古事記をご参照ください。
八坂刀売神 (やさかとめのかみ) - 主祭神。建御名方神の妃神です。
八重事代主神 (やえことしろぬしのかみ) - 合祀。建御名方神の兄神。国譲りの際にはすぐ服従したとされています。詳しくは古事記をご参照ください。
拝殿奥の神明造りの建物が宝殿で、宝殿のさらに奥が御神座とも相殿とも言われ、御神木をお祀りする下社の最も重要な場所だそうです。
参拝させていただくと、清んだ雰囲気が気持ちの良い空間でした。
寝入り杉(根入り杉?)
樹齢700年の杉の巨木。何と、真夜中(丑三つ時)を過ぎるとお疲れなのか枝先を垂れ下げて寝入ってしまい、いびきが聞こえると言われているそうです。このことから「寝入り杉」と伝えられているそうです。御神木です。
御神湯
温泉地だからでしょうか。ちなみ本当に熱いのでご注意ください。
1日で全ての神社を回る予定でしたので、レンタカーをお借りしました。電車やバスなど公共の交通機関もありますが、時間に余裕が無いと厳しいと思います。御朱印を集めていらっしゃる方は、とある理由で全ての神社さんでいただいた方が良いと思います。
パワースポットの歩き方 [ 寺尾玲子、加門七海、天宮視子、他 ]
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「平安神宮」へ行ってきた
私自身、観光客として結構京都をウロチョロさせていただいておりましたが、そんな中、「京都五社めぐり」と言う物があるのを知りました。
なんでも平安京は、方角を司る四神である北の玄武、東の蒼龍、南の朱雀、西の白虎が守護する「四神相応の地」としてが造られたそうです。
その中で、方角と深い関係にある神社を巡るのが、「京都五社めぐり」なんだそうです。水清き賀茂川が流れ出る北の玄武「上賀茂神社」(行ったね)、西の桂川を渡ったところには白虎「松尾大社」(行ったよ)、東山の麓にある蒼龍「八坂神社」(もちろん行った)、鴨川と桂川が出合う南には朱雀「城南宮」(行きましたよ)、と東西南北の四神に対応する神社にお参りに行くだけでは無く、中央を守護する「平安神宮」にもお参りに行き京都五社が完成するらしいです。(京都の中心だから平安神宮じゃなくて御所なんじゃねと考えたあなた、それを口にするのは野暮って物です。心の中に留めておくのが吉。)
ちなみに「京都五社めぐりスタンプラリー」を開催されているそうで、京都の四神相応の五社をめぐると、最初にお参りした神社で「五社めぐり四神色紙(初穂料要)」を授与され、五社をめぐり、すべての御朱印(有料ですからね、ちゃんと納めましょう。だけどこれってスタンプでは無い気がしないでもない。)を集めると「満願記念品しおり」を最後の神社でいただけるそうです。
「平安神宮」さんは、バスで前を通る度に大きな鳥居があって気になっていたのですが、お参りした事が無かったため行ってみる事にしました。
鳥居(登録有形文化財)
遠くから見えてました。大鳥居ですね。昭和3年に昭和天皇の御大典が京都で行われたのを記念して、平安講社が昭和4年に造営したものだそうです。
とてつもなく広くて長い参道
平安神宮は平安遷都1100年を記念して、明治28年に平安遷都を行った天皇であった第50代桓武天皇を祀る神社として創建されたそうです。1940年(昭和15年)には、平安京で過ごした最後の天皇である第121代孝明天皇(NHK大河ドラマ「八重の桜」で染様が演じていらっしゃいました。)が祭神に加えられたそうです。
應天門(重要文化財)
境内
境内もとんでもなく広かったです。
社殿は平安京の大内裏の正庁である朝堂院(八省院)を縮小(長さ比で約8分の5)して復元したものだそうです。正面に見える外拝殿(重要文化財) は朝堂院の正殿である大極殿(左右には蒼龍楼と白虎楼が付属する)を模しているとの事。
左右には 「左近の桜・右近の橘」(コピー)も見えます。 左近の桜・右近の橘について詳しくはネットにて(ぶん投げ)。
外拝殿(重要文化財)
こちらは「大極殿」とも呼ばれており、大極殿は平安京の大内裏の正庁朝堂院の正殿で、即位、朝賀をはじめ国の主要な儀式が行われる中枢であるとの事。ちなみ大極とは、宇宙の本体・万物生成の根源を示す言葉で、不動の指針北極星に比定され、天皇の坐す御殿を意味するそうです。
中は荘厳な雰囲気が在り、お参りした時には、なるほど京都を守ってらっしゃるんだなーと実感できました。ブログの発言は当時は本当にそう思ったので編集しませんが、謝罪します。
写真で見ていただいた通り、とてつもなく広いので、まだまだ見どころがある場所がたくさんありました。周囲には「平安神宮神苑」と言う総面積33,000㎡(約10,000坪)の広大な池泉回遊式庭園が、ご社殿を取り囲むようにあります。有料ですが、国の名勝に指定されていますので、時間に余裕が在るときには拝観してはいかがでしょうか。
「頂法寺」へ行ってきた
京都へ行くと、いつも食事に悩んでいます。食べられないのでは無く、美味しい物がありすぎて!!。夜はここで、昼はここで、ここでお茶したいなど、滅茶苦茶悩んでしまいます。京都が地元の人は悩まないんですかね。
豪華なホテルに宿泊する時はホテルのレストランで食べる事もありますが、そうじゃ無い時は大抵外で食べています。
その日は、念願だった京都のモーニングを「イノダコーヒ」本店でいただきました。「京都の朝はイノダから」というキャッチフレーズで地元ではお馴染みのイノダコーヒ。昭和15年創業の老舗喫茶店で、モーニングの名店です。一度本店で食べたかったんですよ。ちなみに、お店の外観は町屋、中は明治や大正時代を彷彿とさせるレトロな洋風サロン風。朝から優雅な気分になれます。
京の朝食
ふわっふわのスクランブルエッグに、サラダ、パリパリのクロワッサン、分厚いハム。しかもこのハム、茅ヶ崎のハム工房で作られている保存料無添加のものだそうです。ドリンクにはオレンジジュースとコーヒーが付いてきます。味の方は文句のつけようが無く美味しいです。満足感一杯で、朝から充実した1日が送れそうな気がします。
美味しいご飯を食べて、ご機嫌でホテルに帰る途中に、京都の中心があるらしいと聞いてふらりと寄ってみる事にしました。それが「頂法寺」です。
お寺の始まりは、敏達天皇の時代、淡路国岩屋浦に閻浮檀金(えんぶだんごん、黄金の意)の如意輪観音像が漂着したそうです。その像は、聖徳太子が前世に唐土にあって仏道修行していた時に信仰していた像であり、太子はこの観音像を念持仏としたそうです。これが後の頂法寺本尊だそうです。太子が16歳のとき、排仏派の物部守屋討伐にあたって、護持仏に「無事討伐できたならば、仏の功徳に感謝して四天王寺を建立いたします」と戦勝祈願したところ勝利、寺建立のための用材を求めて、小野妹子とともにこの地を訪れたそうです。その際、太子は池で水浴をするため、傍らの木の枝の間に持仏の如意輪観音像を置いたところ、像が重くなり動かなくなってしまったそうなんです。しかも、観音像は光明を発し、自分は七生にわたって太子を守護してきたが、今後はこの地にとどまり衆生を済度したいと太子に訴えたそうなんです。そこで太子は、四神相応のこの地に伽藍を建てることとし、東からやってきた老翁(鎮守神の唐崎明神)が、紫雲たなびく杉の霊木のありかを教えてくれたので、その材を用いて六角形の堂を建立したのがこの寺の始まりとの事でした。信じるか信じないかはまあ、その人にお任せするとして、中々壮大なお話ですよね。
本堂(形が六角形であることから、古くより「六角堂」の通称で知られているそうです。)
お寺によると、本堂の形は、六角堂に「わが思う心のうちは六(むつ)の角ただ円(まろ)かれと祈るなりけり」と言う御詠歌があり、「六の角」とは、六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)によって生ずる六欲のことで、これらを捨て去って角を無くし、円満になること、すなわち「六根清浄を願う」という祈りを込めた形と伝えられているそうです。
ちなみに、柳の木が見えると思いますが、これは平安時代初期、妃になる女性を探していた嵯峨天皇の夢枕に六角堂の如意輪観音が現れ、「六角堂の柳の下を見てみなさい」とのお告げを受けたため、人を遣わしてみると、柳の下には一人の美しい女性が立っており、天皇はただちに妃として迎えたそうです。そのため「六角堂の柳に願をかけると良縁に恵まれる」という噂が広がり、「縁結びの柳」と呼ばれるようになったそうです。
残念ながらお話にあった如意輪観音像は秘仏とされ、一般には公開されていませんでした。エピソード的にはフットワークが軽そうですが、表に出ないのでは致し方ありません。※平成29年 3月11日(土)~4月10日(月)にご開帳がある事を知りました。機会がある方はチャレンジを。
へそ石
これが噂に聞いた京都の中心です。「へそ石」または「要石(かなめいし)」と呼ばれており、旧本堂の礎石と伝えられ、頂法寺が平安京造営以前から存在していると言われているそうです。位置もほぼ移動していないことから、この石が京都の中心であると言われているとの事。平安京以前から存在するなんて凄くないですか。噂を信じて行き当たりばったりお邪魔させていただいた甲斐があったと言う物です。
聖徳太子沐浴の古跡
聖徳太子が沐浴された池では、今は白鳥さんが泳いでいました。
ちなみに、聖徳太子の命により小野妹子が入道し仏前に花を供えたことが華道の由来とされているそうで、生け花の池坊会館が目の前にありました。
帰りは、お茶所で「へそ石餅」をいただいて帰りました。烏丸通りのすぐ傍ですし、美味しいので、皆さんもぜひ一度寄ってみるのが良いかと思います。
「鳳来寺・鳳来山東照宮」へ行ってきた
芭蕉先輩には負けませんよ~とブログのタイトルにありますが、パイセンは本当に色々な所に足跡を残されています。ふらっと旅行すると、奈良や京都、仙台など、訪れる先々に足跡を見つける事ができます。電車も車も無い時代に本当に頭の下がる思いです。
今回も、「真田丸」で内野さん演じる「徳川家康」(今は阿部サダヲさんですかね)と関係があると言われている「鳳来寺山」に行ってきましたが、こちらも芭蕉パイセンが訪れていた事を現地で知りました。
ちなみに当日は公共交通機関(電車でJR「名古屋」駅から、「豊橋」駅で飯田線に乗換え、JR「本長篠」駅下車。本長篠駅から豊鉄バスに乗り「鳳来寺」にて下車。しかし、後で気づいたのですが「鳳来寺山頂」まで行くバスがあるらしいのです。迂闊!)で行きました。時間短縮のため、山の中腹まで車で行けるルートがあるみたいなので体力や時間に余裕が無い方は車がお勧めです。
「鳳来寺山」は、1300年前に「利修仙人」が開山したと伝わる霊山であり、中腹に「鳳来寺」があります。麓から1425段の石段が続く長い鳳来寺の参道には、樹齢800年、現存するものとしては日本一となる高さ60mを誇る傘杉などが生息し、たいへん見どころがあります。また、「声の仏法僧」とも呼ばれる愛知県の県鳥・コノハズクが棲息していることでも知られており、山全体が国の名勝・天然記念物に指定されています。コノハズクが「ブッポーソー」と鳴くそうですが、私は残念ながら確認できませんでした。
芭蕉パイセンは、弟子の近江国膳所藩重臣菅沼曲翠の勧めで元禄4年(1691)冬10月(冬!!)、新城の豪商太田白雪の家に身を寄せ、白雪に案内されて名刹鳳来寺を訪れたそうです。しかし、芭蕉パイセンの持病(癪(しゃく)、胃痙攣・・・諸説あり)が激しくなり、パイセンは参詣をあきらめ、引き返し、麓の屋根屋という旅籠に無理に頼んで泊めてもらったとの事でした。当時と重大さも大変さも規模も違うので、一括りにしてはいけませんが、何事も無理は禁物なので、正しい判断だったと思われます。
「夜着ひとつ祈出して旅寝かな」
と1句詠んでらっしゃいますが、体調が悪いにも関わらずこの日はちょうどどの部屋も満員で、与えられた部屋は風が吹き抜け、弟子たちが奔走してやっと一枚の掛け布団を借りることができたそうです。昔から旅にトラブルはつきものですが、過酷ですね。
バスを下り、登山口から黙々と歩いている時に途中の句碑でそのエピソードを知り、こんな所にもと関心しながら、山を登っていました。
景色は素晴らしく、なるほど山全体が国の名勝・天然記念物に指定されているだけはあります。
すごい「杉」
石段を黙々と登っていました。皆さん、楽ではありませんよ。
さすがは霊山、1時間?近くかけて中腹に到着!!
鳳来寺本堂前から見える「ハートマーク」。判りますかね。
「鳳来寺」
中腹にある鳳来寺に到着。汗だくです。
寺伝では、利修仙人が大宝2年(702年)に開山したと伝えられているそうです。仙人は霊木の杉から本尊・薬師如来、日光・月光菩薩、十二神将、四天王を彫刻したと伝えられているそうです。中々の仙人だったらしく、文武天皇の病気平癒祈願を再三命じられて拒みきれず、鳳凰に乗って参内!!したという伝説があります。鳳来寺という寺名及び山名の由来となっているそうで、仙人の17日間の加持祈祷が功を奏し、天皇は快癒。この功によって伽藍が建立されたということです。
「鳳来山東照宮」
鳳来寺本堂からちょっと行った所にありますが、すぐです。
「東照社縁起」によると、家康の父母である松平広忠と正室於大の方(伝通院)は、子のできないことを憂い、祈願のために夫妻そろって領内の鳳来寺に参篭したところ、伝通院が東方より現れた老翁に金珠を与えられる夢を見て、間もなく家康を懐妊したと言われているそうです。
また、鳳来寺の伝説では、家康の出生は壬寅年寅月寅の日にあたる天文11年(1542年)12月26日の寅の刻(午前5時頃)であったとされるが、鳳来寺では家康誕生と時を同じくして、薬師堂の本尊である薬師如来を守護する十二神将の中、寅神でもある真達羅大将の神像が忽然と姿を消し、家康が薨ずると神像もひとりでにもとの位置に戻っていたといい、以来、家康は真達羅大将の化身であったと伝えられているとの事です。
慶安元年(1648年)、3代将軍家光が日光東照宮へ参拝した折に改めて『東照社縁起』を読み、徳川家康の出生と三河国設楽郡の鳳来寺との縁に感銘を受け、鳳来寺の本堂修復と薬師堂の再建を発願。それにあわせて新たに東照宮の創祀を計画し、進めますが、志半ばで亡くなったため、跡を継いだ4代将軍家綱が慶安4年(1651年)に社殿が竣成。家康と縁が深く、日光・久能山と並ぶ三大東照宮の1社と呼ぶ人もいるとの事です。
中腹にあるお茶屋さんで、アイスと「五平餅」でエネルギー補給です。
甘塩っぱいお餅と冷えたお茶が体に染みました。
その後、山頂に奥宮があるとの事でしたので、お邪魔しようとしましたが、疲労となぜか現れたスズメバチの妨害などを考え、今日は見送る事にしました。
次は、ここまで車で来て、そこから山頂にアタックしようと思います。
帰りはまた黙々と下りて帰りましたが、さらにバスの時間が合わなかったため本長篠駅まで歩いて帰る事にしました。皆さん、決して真似しないようにしましょう。徒歩であの道を歩いている人は誰もいませんでした。
本長篠駅