ぶらり旅ー芭蕉先輩には負けませんよ~ー

ふらりと旅した先を勝手にご紹介しています。

「鳳来寺・鳳来山東照宮」へ行ってきた

芭蕉先輩には負けませんよ~とブログのタイトルにありますが、パイセンは本当に色々な所に足跡を残されています。ふらっと旅行すると、奈良や京都、仙台など、訪れる先々に足跡を見つける事ができます。電車も車も無い時代に本当に頭の下がる思いです。

今回も、「真田丸」で内野さん演じる「徳川家康」(今は阿部サダヲさんですかね)と関係があると言われている鳳来寺山に行ってきましたが、こちらも芭蕉パイセンが訪れていた事を現地で知りました。

ちなみに当日は公共交通機関(電車でJR「名古屋」駅から、「豊橋」駅で飯田線に乗換え、JR「本長篠」駅下車。本長篠駅から豊鉄バスに乗り「鳳来寺」にて下車。しかし、後で気づいたのですが「鳳来寺山頂」まで行くバスがあるらしいのです。迂闊!)で行きました。時間短縮のため、山の中腹まで車で行けるルートがあるみたいなので体力や時間に余裕が無い方は車がお勧めです。

鳳来寺山」は、1300年前に「利修仙人」が開山したと伝わる霊山であり、中腹に鳳来寺があります。麓から1425段の石段が続く長い鳳来寺の参道には、樹齢800年、現存するものとしては日本一となる高さ60mを誇る傘杉などが生息し、たいへん見どころがあります。また、「声の仏法僧」とも呼ばれる愛知県の県鳥・コノハズクが棲息していることでも知られており、山全体が国の名勝・天然記念物に指定されています。コノハズクが「ブッポーソー」と鳴くそうですが、私は残念ながら確認できませんでした。

 

芭蕉パイセンは、弟子の近江国膳所藩重臣菅沼曲翠の勧めで元禄4年(1691)冬10月(冬!!)、新城の豪商太田白雪の家に身を寄せ、白雪に案内されて名刹鳳来寺を訪れたそうです。しかし、芭蕉パイセンの持病(癪(しゃく)、胃痙攣・・・諸説あり)が激しくなり、パイセンは参詣をあきらめ、引き返し、麓の屋根屋という旅籠に無理に頼んで泊めてもらったとの事でした。当時と重大さも大変さも規模も違うので、一括りにしてはいけませんが、何事も無理は禁物なので、正しい判断だったと思われます。

「夜着ひとつ祈出して旅寝かな」

と1句詠んでらっしゃいますが、体調が悪いにも関わらずこの日はちょうどどの部屋も満員で、与えられた部屋は風が吹き抜け、弟子たちが奔走してやっと一枚の掛け布団を借りることができたそうです。昔から旅にトラブルはつきものですが、過酷ですね。

バスを下り、登山口から黙々と歩いている時に途中の句碑でそのエピソードを知り、こんな所にもと関心しながら、山を登っていました。

景色は素晴らしく、なるほど山全体が国の名勝・天然記念物に指定されているだけはあります。

すごい「杉」

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石段を黙々と登っていました。皆さん、楽ではありませんよ。

 

さすがは霊山、1時間?近くかけて中腹に到着!!

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 鳳来寺本堂前から見える「ハートマーク」。判りますかね。

 

鳳来寺 

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中腹にある鳳来寺に到着。汗だくです。

寺伝では、利修仙人が大宝2年(702年)に開山したと伝えられているそうです。仙人は霊木の杉から本尊・薬師如来、日光・月光菩薩十二神将、四天王を彫刻したと伝えられているそうです。中々の仙人だったらしく、文武天皇の病気平癒祈願を再三命じられて拒みきれず、鳳凰に乗って参内!!したという伝説があります。鳳来寺という寺名及び山名の由来となっているそうで、仙人の17日間の加持祈祷が功を奏し、天皇は快癒。この功によって伽藍が建立されたということです。

 

「鳳来山東照宮」

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鳳来寺本堂からちょっと行った所にありますが、すぐです。

「東照社縁起」によると、家康の父母である松平広忠と正室於大の方(伝通院)は、子のできないことを憂い、祈願のために夫妻そろって領内の鳳来寺に参篭したところ、伝通院が東方より現れた老翁に金珠を与えられる夢を見て、間もなく家康を懐妊したと言われているそうです。

また、鳳来寺の伝説では、家康の出生は壬寅年寅月寅の日にあたる天文11年(1542年)12月26日の寅の刻(午前5時頃)であったとされるが、鳳来寺では家康誕生と時を同じくして、薬師堂の本尊である薬師如来を守護する十二神将の中、寅神でもある真達羅大将の神像が忽然と姿を消し、家康が薨ずると神像もひとりでにもとの位置に戻っていたといい、以来、家康は真達羅大将の化身であったと伝えられているとの事です。

慶安元年(1648年)、3代将軍家光が日光東照宮へ参拝した折に改めて『東照社縁起』を読み、徳川家康の出生と三河国設楽郡の鳳来寺との縁に感銘を受け、鳳来寺の本堂修復と薬師堂の再建を発願。それにあわせて新たに東照宮の創祀を計画し、進めますが、志半ばで亡くなったため、跡を継いだ4代将軍家綱が慶安4年(1651年)に社殿が竣成。家康と縁が深く、日光・久能山と並ぶ三大東照宮の1社と呼ぶ人もいるとの事です。

 

中腹にあるお茶屋さんで、アイスと「五平餅」でエネルギー補給です。

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甘塩っぱいお餅と冷えたお茶が体に染みました。

 

その後、山頂に奥宮があるとの事でしたので、お邪魔しようとしましたが、疲労となぜか現れたスズメバチの妨害などを考え、今日は見送る事にしました。

次は、ここまで車で来て、そこから山頂にアタックしようと思います。

帰りはまた黙々と下りて帰りましたが、さらにバスの時間が合わなかったため本長篠駅まで歩いて帰る事にしました。皆さん、決して真似しないようにしましょう。徒歩であの道を歩いている人は誰もいませんでした。

本長篠

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「椿大神社」へ行ってきた

最近、書籍やテレビでパワースポットが紹介される事が多く見られます。私が行った事がある神社もパワースポットとして紹介されていたのでご報告させていただきます。

場所は三重県にある神社で、テレビではすごいパワーがあるとの事でご紹介されていました。皆さんは三重県の代表的な神社と言えば伊勢神宮だと思われるかもしれませんが、今回ご報告する椿大神社(つばきおおかみやしろ)」は、三重県鈴鹿市にある神社で、式内社伊勢国一宮として定められていらっしゃいます。後で知ったのですが、猿田彦大本宮とも呼ばれる、猿田彦大神を祀る神社の総本社だそうです。

JR四日市駅からバスで1時間、近鉄四日市駅からバスで55分との事でしたので、時間の関係でレンタカーをお借りしました。

安全運転にて到着すると、立派な鳥居と「椿会館」と呼ばれる立派な施設が。結婚式だだったらしく、新郎新婦さんがいらっしゃいました。

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参道を上っていくと、途中に、この地に天孫瓊々杵尊一行の御船が到着されたと伝承されてきた場所である「御船磐座」と呼ばれる場所や、猿田彦大神の御陵と呼ばれる「高山土公神陵」が在り、 とても歴史がある場所だと判ります。

ちなみに、現宮司様は、その猿田彦大神の子孫だそうです。中々考古学や歴史学的な考察ができそうな場所ではありませんか。

 

本殿

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お参りさせていただいた時には、パワーなど良く判らない私ですが、山の冷気が降りてきていて空気がとても澄んでいた事を覚えています。

 

本殿以外にも、様々な別宮、末社があり、弓道場や茶室などの施設もありました。立派な神社さんだなーと関心していたら、なんとあの経営の神様「松下幸之助」さんが松下幸之助社 に祀られていました。あらあら、本当に神様になったんだ・・・と言うのが正直な感想ですが、死んでからも働いてるんですね~。私にはとても無理なので、頭が下がります。

ここからさらに登ると、高山入道ヶ嶽の山頂に「奥の宮」が鎮座してらっしゃって、一帯には太古の祭祀跡である磐座が点在しているそうです。興味がありましたが、標高905.4mまで上る準備もしていなかったため、見送る事にしました。次は挑戦してみたいと思います。

 

テレビでパワースポットとして紹介されていた「かなえ滝」です。

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 椿岸神社横にあり、金龍明神滝よりの流れをいただく滝だそうです。開運成就、恋愛成就など願いを叶えると云われていることから名付けられたそうです。待ち受けにすると良いそうですが、ぜひ一度ご自分で行かれるのが良いかと思います。

 

山の冷気と神社の雰囲気で厳かな気持ちになった後、椿会館で、名物「椿とりめし」をいただいて帰りました。美味しかったです。次は奥宮へ挑戦したいと考えています。

デアゴスティーニ 日本の神社 第95号 椿大神社 他

 

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「枚岡神社」へ行ってきた

突然ですが、各地をウロチョロしていると、歴史的有名人によるお手植えの木と言われるものが見られる事があります。名古屋の熱田神宮では空海上人」のお手植えによる「大楠」。京都の「青蓮院門跡」では 親鸞聖人」のお手植えによる「大楠」と、遭遇するとへ~と思って写真を撮っています。

熱田神宮 空海上人お手植えによる大楠

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青蓮院門跡 親鸞聖人お手植えによる大楠

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そんな中、何と神武天皇のお手植えの木があるとの風の噂を聞きました。そんな歴史を吹っ飛ばして神話上の人物がお手植えされた木があるなんてと驚いて、行ってみることとしました。

それが大阪にある枚岡神社です。

枚岡神社(ひらおかじんじゃ)は、大阪府東大阪市出雲井町にある神社で、河内国一宮。あの春日大社への勧請元のため、「元春日」の別称があるそうです。

社伝によると、初代神武天皇即位前3年、神武天皇の侍臣で中臣氏の祖の天種子命(あめのたねこのみこと)が、天皇の命で神津岳の頂に祖神の天児屋根神を祀ったのが創建とされるそうです。「平岡(枚岡)」の社名は神津岳の頂が平らだったのによるものだそうで、中臣氏の支流の平岡連(ひらおかのむらじ)の氏神とされているそうです。白雉2年(650年)、平岡連によって山頂から中腹の現在地に移されており、山頂には現在も奥宮があるとの事でした。

祭神は4柱。本殿4棟(第一・第二・第三・第四殿)に各1柱が祀られているそうです。
第一殿:天児屋根命(あめのこやねのみこと) - 中臣氏祖神。
第二殿:比売御神(ひめみかみ) - 社伝では「天美豆玉照比売命(あめのみづたまてるひめのみこと)」で天児屋根命の后神とする。
第三殿:経津主命(ふつぬしのみこと) - 香取神宮(千葉県香取市)祭神。
第四殿:武甕槌命(たけみかづちのみこと) - 鹿島神宮茨城県鹿嶋市)祭神。
天児屋根大神・比売大神が本来の祭神で、枚岡神社さんから春日大社に勧請されたので「元春日社」とされていらっしゃいます。後に春日大社から武甕槌大神・斎主大神を勧請し、同社と同じ神(春日神)を祀られたそうです。

 

神社は近鉄奈良線枚岡駅下車すると、すぐ大きな鳥居があり、長くて立派な参道があります。後で知ったのですが、ここで毎年「お笑い神事」が行われるそうです。

 

参道広場には手水場がありますが、なんと鹿でした。

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春日大社さんには武甕槌命(たけみかづちのみこと)が白い鹿に乗ってやってきたとの伝説があり、鹿が神獣となっています。その関係でしょうか。

階段の上に立派な拝殿が。

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拝殿の奥の御本殿は残念ながら拝見できませんでした。 

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天正7年(1579)年9月、織田信長の兵火により類焼をうけ、本殿以下諸建物が焼失してしまったそうですが、慶長7年(1602)NHKの大河ドラマにも出られてた豊臣秀頼公が社殿の造営をし立派に復旧されたそうです。

御神木

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私は 神武天皇のお手植えの木があると思っていたのですが、ご神木は柏槙(びゃくしん)と呼ばれるイブキ科の樹木で、社伝によると、白雉元年(650)に、神津嶽から現社地に神様をお遷しされた時、神津嶽には神武天皇お手植えの柏槙の大木があり、あまりにも大木すぎて移せない為、枝を切って挿し木したものだそうです。誤解は残念ですが、へーと思いました。

ちなみに昭和の第二室戸大風で損傷し、やむなく昭和40年代地上3メートルを残し伐採されてしまったそうです。

神社からさらに上に行くと枚岡梅林と呼ばれる梅林がありました。

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景色もすてきです。ただ、病気のため1月に伐採されてしまったそうです。また、立派な梅林になる事を願っています。

今回はさらに上にある奥の宮にはいけませんでした。次こそは上まで挑戦したいと思います。

デアゴスティーニ 日本の神社 第59号 枚岡神社 他

  

日本廻国記 一宮巡歴 (講談社文芸文庫)

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「今宮神社」へ行ってきた

皆さん、京都市北区「今宮神社」さんと言う神社があるのをご存じですか。

前からとある理由で行きたいな~と思っていた神社さんですが、この度プラ~とお邪魔できたのでご報告致します。

「今宮神社」さんは大己貴命(おおなむちのみこと)」「事代主命(ことしろぬしのみこと)」「奇稲田姫命(くしなだひめのみこと)」の3柱を祀ってらっしゃいます。

歴史は古く、現在の今宮神社がある土地には、794年(延暦13年)の平安遷都以前から疫神スサノオを祀る社(現在摂社疫神社)があったそうです。平安遷都後にしばしば疫病や災厄が起こり、神泉苑上御霊神社下御霊神社、八坂神社などで疫病を鎮めるための御霊会が営まれましたが、994年(正暦5年)に都で大規模な疫病がはびこったため、朝廷は神輿2基を造って船岡山に安置し、音楽奉納などを行った後、疫災を幣帛に依り移らせて難波江に流したそうです。民衆主導で行われたこの「紫野御霊会」が今宮祭の起源とされ、京都の他の都市祭礼と同じく災厄忌避を祈願する御霊会として始まったそうです。
1001年(長保3年)にも疫病が流行したことにより、朝廷は疫神を船岡山から移し、疫神を祀った社に神殿・玉垣・神輿を造らせて今宮社と名付けたました。大己貴命(おおなむちのみこと)、事代主命(ことしろぬしのみこと)、奇稲田姫命(くしなだひめのみこと)の三柱の神が創祀され、疫病が流行るたびに紫野御霊会が営まれ、やがて今宮社の祭礼(今宮祭)として定着して毎年5月に行われることとなったそうです。

ちなみに、西陣の八百屋に生まれた「お玉」さんが徳川3代将軍家光の側室となり、5代将軍綱吉の生母・桂昌院として従一位となったことが、「玉の輿」ということわざの由来になったとの説があるそうです。「お玉」さんはこちらの神社にお参りしていたとのお話があり、桂昌院となった後も今宮社に対する崇敬と西陣に対する愛郷の念が非常に強かったと言われています。元禄七年(1694)には荒廃していた社殿の造営など大いに務められ、祭礼も往時のような盛況を取り戻したと伝えられています。そのせいだけでは無いでしょうが、神社は非常に立派です。お玉様に由来してか神社では「玉の輿守」をはじめ、縁結のお守が授与されていました。確かに効きそうです。

 

立派な門です

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立派な本殿

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境内には、本社、疫社以外にも数多くのお社があります。織物の祖神を祀る「織姫社」等々落ち着いた雰囲気の中お参りできました。

 

そうして、私がとある理由で行きたいな~と思っていたのは今宮神社さんの東門の門前にあるお店で食べたかったお餅があったのです。不純な理由ですみません。

そのお餅とは、あぶり餅」と言って親指大にちぎった餅にきな粉をまぶし、竹串に刺したものを備長炭であぶって、白味噌のたれをかけていただく物です。文章だけ見るとふーんと思われるかもしれませんが、あぶり餅を提供しているお店は、なんと「一文字屋和輔」(いちもんじやわすけ)さんが1000年前(平安時代)から、「かざりや」さんはは江戸時代初期の創業と言われています。1000年ですよ、凄くないですか!。京都は歴史の積み重ねがある都ですが、1000年の歴史があるお菓子が食べれるなんて感動してしまいます。

 

左側にあるお店が「一文字屋和輔」(いちもんじやわすけ)さん。

右側が「かざりや」さんです。

門前すぐにあるので迷うことはありません。

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今回は「一文字屋和輔」(いちもんじやわすけ)さんでいただきましたが、白味噌のたれがお店で違うそうです。気になりますね。

 

「あぶり餅」

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甘塩っぱくて、本当においしいです。いくらでも食べれそうです。

祭事で用いられた竹や供え餅を、参拝する人々に厄除けとして提供したのが始まりとされるそうですが、御利益がありそうとは別にこれはおいしいので本当にお勧めです。

ちなみに、お茶は地下に一度も枯れた事の無い井戸があり、その水脈で入れたものだそうです。さらなる歴史を感じますよね。

 

気になっていたお餅も食べれて、お参りもできて、中々充実した物になりました。ただ、おもちの味の違いが気になりますので、次はかざりやさんでいただいてみたいと思います。

 

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開運! 京都パワスポ散歩

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「明治村」に行ってきた

皆さん、愛知県犬山市明治村と言う野外博物館があるのをご存じでしょうか。明治時代の建造物等を移築して公開、また明治時代の歴史的資料の収集をし、社会文化の向上に寄与することを目的とする建築物を利用した博物館です。

私はここに旧帝国ホテルの建物が移築されていると聞き、これは行くしかないと突然思い立ったのです。

アクセスはJR名古屋駅から「名鉄名古屋駅」へ。そこから「名鉄犬山線」に乗り込み「犬山駅」へ。さらに「明治村正門行き」バスに乗り込み20分。JR名古屋駅から1時間少々かかったでしょうか。

園内は、本当に明治の「かほり」を残しており、朝ドラなど、様々なドラマの撮影に利用されるのも納得です。

 

三重県尋常師範学校・蔵持小学校」 建設年代 明治21年(1888)

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中には教室も保存されています。

 

「聖ヨハネ教会堂(重要文化財)」建設年代 明治40年(1907)

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 この聖ヨハネ教会堂は、明治40年(1907)京都の河原町通りに建てられたプロテスタントの一派日本聖公会の京都五條教会だそうです。

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園内には飲食店もあり、休憩でお茶をいただける所もありました。

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「 西郷從道邸(重要文化財)」建設年代 明治10年(1877)代

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西郷さんの弟さんの邸宅だそうで、ひたすら豪華です。

 

京都市電」

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実際に走っている車両があります。

 

東山梨郡役所(重要文化財)」建設年代 明治18年(1885)

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安田銀行会津支店」建設年代 明治40年(1907)

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明治の衣装が着れるお店がありました。着たかった・・おろろ。

 

「帝国ホテル中央玄関」建設年代 大正12年(1923)

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「イエーイ! 空前絶後の、超絶怒濤のホテル建築物、優雅さを愛し、優雅さに愛された建築物、空間、華麗さ、圧倒的、すべてのホテルの……」 

と、むやみやたらと訳も無くテンションが上がった私は、バシャバシャと写真を撮ったのです。

この建物は、20世紀建築界の巨匠、アメリカの建築家フランク・ロイド・ライトによって設計され、大正12年(1923)4年間の大工事の後に完成した帝国ホテルの中央玄関部です。詳しくはテレビ番組美の巨人たちフランク・ロイド・ライトの回をご覧ください(ぶん投げ)。詳しい話をしようとすると、文才が追いつかない私は空間構成がどうとか言い出すのでいけません。実際に行って見て見るのが一番だと思います。

単に玄関だけでは無く、内部もロビーなど一部移築されていました。中に喫茶店がありましたので、優雅にコーヒーをいただきました。やはり、旧帝国ホテルでいただく珈琲はひと味違う気がします(あくまで私個人の感想です)。

 

帝国ホテルを満喫した私は、第四高等学校武術道場「無声堂」や、森鴎外夏目漱石住宅など他にも明治を満喫楽し帰宅したのでした。

ただし、明治村は非常に広いため、1日では全部回りきれない気がします。私も行っていない所がいくつかあります。皆さんも訪れる時には時間に余裕を持って行くのが良いのではないでしょうか。愛知県犬山市には国宝「犬山城や神社仏閣など訪れる先がたくさんありますので、私も日帰りでは無く宿泊して行けば良かったと思います。 

 

 

 

 

まっぷる 愛知 名古屋 知多・三河 '17 (まっぷるマガジン)

まっぷる 愛知 名古屋 知多・三河 '17 (まっぷるマガジン)

 

 

宇治「平等院」へ行ってきた

 

平等院鳳凰堂の改修が終了したとの事でしたので行ってみました。

10円玉の図になっている事で一般的には有名ですが、皆さんはどういった建物かご存じでしたでしょうか。

実はあの藤原家の別荘だったのです。それを、永承7年(1052)、時の関白藤原頼通が、父 道長より譲り受けた別業を仏寺に改め、平等院としました。この年は末法末法(まっぽう)とは、仏教で、仏の教のみが存在して悟りに入る人がいない時期のこと。)初年に当たるとされ、末法思想が貴族や僧侶らの心をとらえ、極楽往生を願う浄土信仰が社会の各層に広く流行していました。その翌年の天喜元年(1053)には阿弥陀堂(鳳凰堂)が落慶し、堂内には、平安時代の最高の仏師定朝によって制作された丈六の阿弥陀如来坐像が安置され、華やかさを極めたとされています。現在は世界遺産にも登録されており、宇治の観光名所として超有名です。

 

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ちなみに私が「鳳凰堂」と言ったのが「阿弥陀堂」で、中には「阿弥陀如来坐像」が座していらっしゃいます。

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自由に入れるわけでは無く、申し込みをしてからなので順番待ちをする事があり、時間に余裕を持って行ったほうが良いと思います。

鳳凰堂の本尊阿弥陀如来坐像(像高277.2cm、髪際高242.3cm、木造、漆箔 )と長押(なげし)上の小壁(こかべ)に懸けならべられている52躯の菩薩像は一度見ておいて損は無いと思います。救いを求めて当時最高の技術で作られた作品には、時代を超えて関心する何かがあると思います。

 

ちなみにここは宇治茶で有名な宇治なので、周辺にお茶屋さんがたくさんあります。帰りに抹茶ダンゴとに抹茶のニシンそばをいただきました。

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少々お高かったのお茶は購入していませんが、ほうじ茶くらい買っておけば良かったと今では考えています。次行ったら購入しよう。

 

 

 

吉野山に行ってきた(7)

これは吉野山に行ってきた(6)の続きです。

寒い中トコトコと歩いてきたので、お昼ご飯は温かい物が食べたいな〜と考えていました。
吉野山名物柿の葉寿司も食べたいし悩んでおりましたら、下千本で「柿の葉寿司 やっこ」さんを見つけました。

創業 1910年代(大正年間)からの歴史があり、金峯山寺蔵王堂)前にある立派なお店です。やっこさんでは、大正時代の創業時から受け継ぐレシピにかたくななまでにこだわり、厳選した素材と独自の製法を頑固に守り通しているそうですので、期待が膨らみます。

しかも秋・冬限定の鴨うどんセットもあるので食べたいと思っていたのが全部食べれるようです。


鴨うどんセット
葛餅付(秋・冬限定)1,500円 鴨とキノコの豊かな味。デザート付きのお得なセット。
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寒い時に食べる温かい鴨うどんは美味しかったです。あまり馴染みはありませんが、冷え切った体が鴨肉の脂が体中にしみわたってポカポカになった気がします。


柿の葉寿司は、江戸時代中期から、吉野の地に伝わる夏祭りのご馳走だったそうです。
近海で獲れた鯖を海のない奈良、とりわけ山の奥にある吉野まで運ぶために塩でしめ、防腐効果のある奈良名物の柿の葉で包んで作られる、先人の知恵が詰まった伝統食との事です。
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酸味と甘みが絶妙でした。あまり鯖は好きではなかったのですが、ここの柿の葉寿司ならいくらでも食べられる気がします。

続く


【過去の記事】
・吉野山に行ってきた
・吉野山に行ってきた(2)
・吉野山に行ってきた(3)
・吉野山に行ってきた(4)
・吉野山に行ってきた(5)
・吉野山に行ってきた(6)


吉野山に泊まれます。